[スタータイムライン]SOL、人生の半分が「トン・ヨンベ音楽」

2014-06-17 11:11 am

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[네이버 연예] スターは一日にして成らない。世界が舞台であるK-POPスターの場合はなおさらのこと。スターになるためには最低3~4年間、自分を磨く忍耐の時間が必要だ。思春期に経験するトレーニングは非常に厳しい。この時期、数多くの練習生が汗と涙の苦痛に耐えず、自ら又は回りの反対で夢を諦めざるを得ない。

BIGBANGのリードボーカルであるSOL(26・トン・ヨンベ)にとってもこの時期は厳しかった。練習生として6年、2190日、52560という時間をソウル・マポ区ハプジョン洞の旧YGエンターテインメント社屋で自らと戦った。友達と一緒に思う存分遊ぶ小学校6年の時、自ら選択した道。そのため、もっと頑張った。寄り道せず、充実した6年を過ごした。そして努力した分結果があった。2006年BIGBANGのメンバーにデビューし、今は一番高いところで最も明るく輝いている。

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今週の「スタータイムライン」の主人公、SOLの「タイムスリップ」スポットは、SOLが夢を育てた場所であるハプジョン洞にある旧社屋だ。2011年YGの新社屋がオープンしたが、相変わらずここは練習生にとって「夢」を育てていく場所として残っている。最近、2ndフルアルバム『RISE』を発表したSOLにも、旧社屋で積んだ「甘くて苦い」経験が成長の土台となった。

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15日、旧社屋に足を運んだSOLはあちらこちらを歩き回って「ここもずいぶん変わりました。しかし空気が湿っているのは相変わらずですね」と練習生時代を振り返った。思い出の場所を訪れたように、SOLは12年前に戻り、そのときの話を聞かせてくれた。

#1. 13歳SOLの人生を変えた一言「歌手になりたい」

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‐歌手になりたいと思ったのはいつからですか

「幼い頃から音楽が好きでした。しかし、内向きな性格で人の前では話せませんでした。小学生4年のとき、演技アカデミーがブームとなっていました。家計か厳しくなっておばの家で生活するようになりましたが、いとこが演技アカデミーに通っていて僕も一緒に通い始めました。そのとき、YGでジュニアJINUSEANを選抜し、そのオーディションを受けました。結局、JINUSEAN兄さんのミュージックビデオにも出演することになりました。ヒップポップ音楽に初めて接する経験でしたが、「ここで練習生になりたい」と思いました」」

‐ヤン・ヒョンソク社長に直接話しましたか

「そうですね。JINUSEANとの活動が終わったら、また本来の生活に戻らなければならなかったです。でも、そうしたくありませんでした。社長に「僕は歌手になりたい。ここで練習をさせてください」と聞いてみました。社長は「分かった。やってみよう」と答えました。幼い子供の意思を認めてくださったと思います」

‐小学生6年にとって勇気を必要とすることでしたね

 

「小学生4年のとき通貨危機が起きて突然家計が厳しくなりました。僕は幼かったため当時の状況が理解できませんでした。そんな生活がいやだった一方で、早く自分が出来ることを見つけて親の力になりたいと考えました」

‐社長の第一印象はどうでしたか

「「本当に大きい」と思いました。小学生6年まで見た人の中で、一番大きくて丈夫な人に会った感じでした」

‐親から心配されませんでしたか

「最初は心配されました。しかし「自ら望んでやることだから、結果がどうであれ親に頼ってはいけない。勉強を疎かにしてはいけない」と条件を付けました」

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‐G-DRAGONとの出会いもその頃でしたよね

「ジヨンはアンダーグラウンドのHip Hop Sceneで活動している間、YGにキャスティングされました。練習生同士で喧嘩をすることもありましたが、頼りあう人も他にいませんでした。一緒に練習するパートナーも二人しかいませんでした。二人とも普通の学校生活が出かなかったため、青少年の思い出は全てジヨンと一緒に作りました」

‐ライバル意識もあったのでは

「当時、G-DRAGONは事務所で育てる練習生でありアーティストでした。僕は自ら志願して入った練習生でした。実際、目に見えないやむを得ない差別をジヨンよりは多く感じました。そのため、もっと学ぶために頑張りました。当然ライバル意識もありました」

 #2. トン・ヨンベの10代、クォン・ジヨンと過ごした大切な時間

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‐練習生の生活はどうでしたか

「社会生活を始めた感じでした。家と学校だけを通っていましたがいざ社会に出たら、人に接する方法が分からなくて大変でした」

‐きっと大変だったと思います

「そうでした。特に、家がウジョンブ市にあり、移動距離が長く時間がたくさんかかりました。午後4時に学校が終わったらバスに乗ってホンデに向かいます。6時について練習を終えたら11時になりますが、最後のバスに乗るためバス停まで走らなければならなかったです。ウジョンブ駅に到着すると午前1時で、それからは繁華街を通り過ぎて30分歩いたら家に着きます。その時間から学校の宿題をやって午前3時過ぎて寝ます。一日のお小遣いが2000ウォンでしたが、交通費を引けばちょうど400ウォンが残ったほど厳しかったです」

‐事務所では何を学びましたか

「今の練習生たちはよいシステムの下で体系的に管理されていますが、当時はダンサーや歌手兄さんが練習するのを見て間接的に学ぶことしかできませんでした。でも、そのときは歌手になるための素質以外にもいろいろなことを学びました。たとえば、事務所に到着すれば掃除から始めます。今は、事務所の室長になったホンピョウ兄さんがそのときは先導部みたいな役割をしました。掃除の後、チェックをしますがほこりが残っていると叱られてやり直しました」

‐兄さんたちは何を教えてくれたのですか

「話をかけることすら簡単ではありませんでした。兄さんたちはすでにスターになっていたから。私たちにそんなに優しい存在ではありませんでした。本当にうらやましかったのは、1TYM兄さんたちが3rdアルバムの活動に必要な衣装をアメリカから買って練習室の床に敷いておきましたが、広い練習室を満たすほどの量でした。ジヨンと「僕たちも歌手になったらあんなものを着れるだろう」みたいな話を交わしたことがあります。YGの中ではTEDDY兄さんが最も好きでした。「僕もTEDDY兄さんのようなラッパーになりたい」と思いました」

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‐一番大変だった時間は

「今考えればたいしたことでもありませんが、YGファミリーの2ndアルバムがリリースされた当時のことです。ジヨンは、タイトル曲の『おしゃれ紳士』で兄さんたちと一緒に活動をして、僕も運よく録音作業に参加しました。そのとき、YGファミリーが歌謡大賞で賞を受けることになり家で母と一緒にテレビで放送を見ていました。SEAN兄さんが代表で賞を受けて受賞所感を述べながらアルバムに参加した歌手の名前を呼びました。正直僕はあまり期待もしませんでしたが、実際僕の名前は呼ばれませんでした。母が「アルバムに参加したのに、なぜ呼ばれないの」と聞きました。母に恥ずかしく、すまない気持ちでした」

‐ラッパーが夢でしたが、今はボーカルになりましたね

「ある日、社長に「回りに音楽が出来る友達はいないか」と聞かれT.O.P兄さんを紹介しました。ところが、社長は兄さんに会ってすぐ歌を歌わせました。兄さんは完全なラッパーだったのにですね。当時はヒップポップよりR&Bが主流となっていて、社長は誰であれまず歌から聞いてみました。T.O.P兄さんはR.Kellyの『I Believe I Can Fly』を歌いました。しかし、緊張をしたせいなのか途中で止まってしまいました。凄く戸惑っていましたが、そのとき僕が兄さんの歌を続けて歌いました。それがきっかけです。社長に「君もうまいね、もっと練習してみたら」といわれました。最近もメンバーと「なぜ僕がボーカルになったんだろう」と話し合いますが、このエピソードが思い浮かんでたくさん笑いました」

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‐当時練習室の外で作った思い出はありませんか

 「ジヨンがイルサンに引っ越してラペスタにしばしば行きました。当時、中高生の間ではあるネットコミュニティでメッセージをやり取りするのが流行っていました。ある学校に可愛い女子生徒がいるという噂があれば、その子にジヨンがメッセージを送って会いました。一緒にご飯を食べたりカラオケに行ったり。しかし、そうやって会った友達のほとんどが写真写りがいいのが落とし穴でした(笑)。練習室の外で僕には出来ないことがジヨンには出来ました。たまにはそのときに戻りたいなと思います。

 

#3. 23歳のSOL、危機にあい、また他のチャンスを得る

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‐BIGBANGはどう誕生しましたか

 「ジヨンと僕がデュオとしてデビューするかと思いました。しかし、社長はボーイズグルーウを作る計画でした。最初はヒョンスン(現在、BEASTのメンバー)が入って17歳から3人で合宿生活をしました。ヒョンスンが出てからT.O.P兄さん、D-LITE、V.Iが入りました。今、考えれば、僕とジヨンはボーイズグループになるのがいやでした。実際、T.O.P兄さんは知り合いでしたが、D-LITEとV.Iは知らなかった人で、彼らのポジシャンもあいまいだったからです。「新しいメンバーとどうやってうまく出来るかな」とも考えました。ところが、練習をする過程で互いのことについて知り、通じることがありました」

‐BIGBANGは最初から成功したわけではありませんでした

「そうですね。東方神起のような「イケメン」グループが大人気でした。BIGBANGは背も高くなく、きれいな衣装でもありませんでした。「ああ、こんなタイプのグループだな」というほどの関心を受けました。そのため、休まずシングルアルバムを出し続けたと思います。一月に1回ずつシングルアルバムを出し、準備期間には新聞会社を回りながらインタビューを受けました。アルバムが出たら番組に出演するので休む時間がありませんでした」

 ‐その後『Lie』が嘘みたいにヒットしました

「そもそも『Lie』はジヨンのソロ曲でした。ところが、社長が「この歌をBIGBANGが一緒に歌ったらヒットするかもしれない」としました。私たちが追求していた音楽がヒップポップからエレクトロニックに変わったので以外でした。しかし、結果は大成功でした」

‐そのときからBIGBANGの全盛期が始まりましたね

「一度ヒットしたら『HaruHaru』『Last Farewell』『赤い夕焼け』まで4曲連続でヒットしました。そのときからは歌謡授賞式で大賞も受けました。しかし、ただ仕事としか思えませんでした。凄く忙しかったからです。お祝いパーティーは想像も出来ませんでした。そのときは「食事をする時間はあるのかな」ばかり思っていました。しかも、韓国で成功したらすぐ日本に送られて「また一から始めましょう」と言うのです」

‐BIGBANGにも紆余曲折がありましたね

「数年間仕事ばかりしてきました。仕事に追われてメンバーの間には目に見えない葛藤もありました。あまりにも大変で敏感になっても毎日会わなければならなかったです。個人活動をしてからは「グループでなくても、一人で出来る」と考えたこともあったはずです。そのため不安になりました。「私たちもこうやって終わってしまうのか」と。そのとき、アイドルグループは5年は超えられないという言葉に頷きました。たまたま、その当時嘘みたいによくないことが起こりました。メンバーは様々な紆余曲折を経てみんなが大変な時期を過ごしました。僕は凄く胸が痛かったです。当事者ではありませんでしたが、僕の周りの人々にそんなことが起きたから。かけっぷちに立たされていたら「このまま終わってはいけない、メンバーと離れるのがいやだ」と考えました。

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‐そのとき抱いた個人的な目標はもうなくなりましたか

「そのときのことは僕だけでなく、メンバーにとっても大きな意味がありました。ソロ活動はチームのためのことだとよくいわれますね。しかし、人間はだれでも自分のことを先に考えてしまうと思います。ただ、私たちは違います。そのときのことを経験してから「チームがなければ僕でいられない」ということに気付きました」

‐非行したことはありませんか

「特別に非行を計画したことはありません。未成年のV.Iだけを除いて4人でビールCMを撮影しましたが、D-LITEが撮影が終わったら事務所には内緒にして車に乗って遠いところに行って一週間旅行をしようと提案しました。クレジットカードを使ったら発覚されるから現金をたくさん引き出すという計画まで立てました。CMを撮って宿所に着くと逃げようとしましたが、マネージャが宿所ではなく事務所に行ったのです。社長から話があると言って。不安でしたが、やはり私たちの計画を全て知っていました。V.Iが社長に「兄さんたちが逃げようとする」と言いつけたのです。そのとき、社長は温かい表情で「大変なのか」と聞きました。非行をするのではなく、話したらよかったと思いました」

#4. 21歳SOLの痛い初恋

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‐初恋はどうでしたか

「初恋の傷が凄く大きいです。デビューをする前から好きで、デビューしてからも会っていた人がいました。あまりにも忙しくて告白は出来ず、互いに好きな状態で数年が経ちました。僕はデビューという大事なことを待っていて、会うことも出来ませんでした。でも二月に1度は会えました。その人が私に与えたパワーは凄かったと思います。その人のおかげで「本当に最高になりたい」と思うようになったからです。僕にとっては仕事よりその人の存在がもっと大きかったです。そのため、よく会えなかったとしても待てました。しかし、その人は大変だったそうです。しばらく連絡が取れなかったのですが、後になって彼女に彼氏が出来たことを知りました。全ての意味がなくなってしまいました。初めて空しさを感じ、音楽も単なる仕事のように感じられました。その程度の恋でなければ、真の恋ではないとも考えました。

‐今は恋愛していますか

「たくさんではありませんが、恋愛はしました。しかし、今も凄く忙しくてデートをする時間も機会もありません」

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‐「感動を与える歌手になりたい」といいました。今は歌手という夢を叶えたのですが他の夢はありませんか

「今も変わっていません。今も歌手になりたい。そのとき夢見ていた歌手になっているとは思っていないからです。僕が思っていた歌手はマイケル・ジャクソンのようなイメージでした。数万人が集まったスタジオのステージで歌を歌って、大衆にインスピレーションを与える歌手ですね。まだやるべきことがたくさんあります。見せたいこともたくさん残っています」

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‐ワールドツアーを行う過程で、メンバーと面白い思い出もたくさん作ったと思いますが

「ロンドンで公演を終えてからメンバーと一緒にクラブに行きました。その空間では私たちだけがアジア人でした。アジア人がカッコいい服を着て遊ぶのを見た周りの人々は驚いたようでした。イギリス人たちが私たちに来て「これ、どこで買ったの」とブランド名を聞き、SNSでの友達申請をしたり大騒ぎでした。その当時、『カンナムスタイル』が凄く流行っていて私たちに「DO YOU KNOW PSY?」と聞きました。僕は親切に説明するタイプなので「私たちと一緒に働く歌手だよ」と詳しく説明してあげました。

‐SOLにとってYGは

「青春だと思います。僕は今26歳ですが、YGで人生の半分以上を過ごしたからです。これからはそれ以上の時間を送ると思います。今は、事務所が非常に大きくなりました。アーティストの個性も多様になりました。ここ旧社屋も同じですね。さっき、ここに入ってくるとき「ずいぶん変わったな」と思いました。ただ、特有の湿ったにおいはそのままですね。以前は、ここ地下で全てのことが行われました。録音から練習、マネージメントにいたるまで。その当時が「最もYGらしい」と思います。今は、YGファミリーと呼ぶには事務所がとても大きくなりました。今はYGタウンみたいです」

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정리 : 일간스포츠 엄동진 기자

2014. 6. 17.